第2回 −山に想う−
文/林 千智
“池からあらわれた姫の話”を探している。宮川村は<池の谷>に伝わる伝説である。(「ふたごの池」)出典が知りたい。
昨日、ようやく我が家のパソコン環境がご機嫌を直し、長いことRikiさんからお借りしていたDVD、NHKスペシャル「雨の物語」をじっくり見ることができた。冒頭の池の谷を含む、大台ケ原のものである。
美しかった。この池からあらわれたのだと思うと切なくなるくらいに。そして、畏れるほどの雨を受け止める山々を見ているうちに、母が書き遺していた言葉を思い出した。
「山へ還っていった」―――
母なりの納め方だったのかもしれない。四半世紀も前の私のことである。まったく情けない娘(だったに違いない)が結婚すると言い出した相手は、両親が挙げる結婚不適当三大条件(!?)にすべて合致していた。いわく、「いなかの百姓の長男」である。何も、ぴったりの人と巡り会わなくても・・・とひどく残念がり、強く反対された。にもかかわらず、私は“行く”ことに決めた。式の少し前、実家で過ごす最後の大晦日、母は私の目の前で、初めて泣いた。―――
2度めは、時を経ての今から5年前。それは突然、やってきた。病床で「里の秋」をか細く唄いながら、すっかり“昔”に戻っていた母。はらはらと涙を流しながら、幼子にするように私を抱きしめ、こう言った。「ちーちゃん、お母ちゃんはずっとここにおるよ。どっこも行かへんよ。心配せんでええよ・・・。」それが最後だった。この日を境に、母の心は、もう手の届かないどこかへ、行ってしまった。
その日から2週間。父の死から数えてたったの80日で、母は逝ってしまった。いつも元気印の、笑顔が満開だった母が。あの小さな身体のどこに、末期ガンを抱え込んでいたのか。私は、声が出なくなった。―――
母の時代は大変だった。まさしく、町から「いなかの百姓の長男」に嫁ぎ、多くの辛苦を耐えた。私が2歳の頃、単身赴任中だった父のもとに母と二人で移り住んだ。大・大・大家族を残して。それは、想像を絶する苦渋の決断だったのだと、今になって思う。居を移した宮川村で、両親は、貧しくとも懸命に幸せを作ろうとしていたに違いない。祖父母の相次ぐ死により帰郷したのだが、その後の伊勢でのくらしの中でも、折にふれ、二人は宮川村の話をした。「大杉でなぁ・・・」「江馬でなぁ・・・」。私には幼少期の4年ゆえ、記憶も曖昧だったと思うが、二人に語られる話や数多くの写真により、しっかり身体に染み渡っていたようだ。
宮川村でのくらしと、弟も生まれたその後の伊勢でのくらし。私にとってすべて大切な、「村の記憶」である。何層にも重なりつながり合う、あたたかな人たちに囲まれて、そこから慈雨のように多くの愛情を注いでもらった。
そして、松原さんの「村の記憶」。初めて見た時、どれも自分の中の「むらきお」と重なり、涙が止まらなかった。嗚咽まで出る始末である。そこには写っていないはずの母と父に、会えた気がした。
勢和図書館での「むらきお」もまさしく、であった。一人ひとりの人が自分なりの間合いで、一枚一枚の写真と相対している後ろ姿が、あまりにも淋しく、しかし、とてつもなく<守られている>と感じた。みんな、抱えている。背負っている。生きてきたのだから。そしてまたこの一枚から、新たな物語が紡がれていくのだろう。自分の来し方を納めるために。明日への歩を始めるために。
ありがとう、「むらきお」。
勢和の地で25年。家のすぐ裏を流れるのは、“宮川”の支流、濁川(にごりがわ)。私に人生180度の転換を迫った(!?)村の伝説を描くお芝居では、なんと、“池”に馬で身を投じる「姫」の役。(「五箇篠山城物語」)
かつての情けない娘は、母となり、年を重ね、このまま「やまんば」にでもなりそうな勢いだ。いつかきっと、こう納める日がやってくる。
「山へ還ったやまんばは、それからのち、たいそうしあわせにくらしたということです。」どんとはれ。
2011.6.1
ライターノーツ/勢和図書館 司書 林 千智
林さんには昨年度開催した写真展「村の記憶」@勢和図書館でいろいろとお世話になりました。
三重県の誇る図書館司書として活躍されています。
勢和図書館(多気町立図書館)
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