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第4回 −「村の記憶」から「家の記憶」へ−
文/兼松 春美

『村の記憶』から『いえの記憶』へ

母のふるさと、岐阜県郡上郡北濃村歩岐島(ほきしま)は、わたしのふるさとでもある。育ったのは、名古屋の旧城下町北東はずれだが、産婆さんに助けられこの世に生を受けたのは、「北濃のおばあちゃんの家」だからだ。

 18歳で村を離れ、愛知県一宮市内の繊維会社で働くようになった母は、そこで父と出会い、名古屋の糸屋に嫁いだ。野山を駆け回ってのびのび育った母が、名古屋商人の「超」つましい暮らしになじむまでには、ずいぶん時間がかかったことだろう。結婚してから1年で10キロやせたのは、つわりのせいばかりではなかったはずだ。
空襲で焼け野原になった町に戦後すぐ建てた、バラックのような祖父母の家。店と倉庫、四畳半一間の小屋(ここで両親の新婚生活がはじまった)、それに伯父の家が同じ敷地内にあった。母は大家族の世話から店の掃除、配達、経理までまかされ、てんてこまいの毎日だった。

 唯一の息抜きが、「在所(実家)」に帰ることだったのだろう。学校が休みになるのを待ちかねるように、わたしたち姉妹を乗せて、母は北濃へと車を走らせた。
歩岐島は、長良川と支流の前谷川の合流点にある小さな集落だ。家のすぐ前を走る国道156号線はまだ舗装されておらず、道の端には夏でも手がちぎれるほど冷たい、きれいな水が流れていた。
大きな風通しのいい家での昼寝、スリル満点の川遊び、裏山探検、隣が養鶏場だったため、風向きによってはにおいがすごかったこと。昭和51年、祖父母が家を売却し一宮の長男のもとに身を寄せたため、それきり行かなくなった北濃の家のことを次々と思い出したのは、最近自分の家族と家についての小さな本をまとめたからだ。

 写真を並べ、短い文章をつけているうちに、今は亡き祖父母や大伯父、叔母との会話までがよみがえってきた。そして先日、我が家に持ち帰った『村の記憶』のページをめくったとき、写っている場所は違うのに、北濃の清冽な風がふっと鼻先をかすめた。絶え間ない川の音が聞こえた。
村の記憶はいえの記憶とつながり、一人一人の心の中にひそんでいる。大切にしまったものをよびおこし心をぐらぐら揺さぶる、そんな仕事をわたしもしたいと、強く思った。

 いえはいつもそこにある。
 帰って行くところとして、
 そこからまた、出発するところとして。




ライターノーツ/『棲(すみか)』発行人 兼松春実
兼松さんは名古屋の女性3人で制作する私らしい暮らしの提案誌「棲 すみか」冊子の発行人。
私も三重県の取材などのときにお世話になっています。
兼松さん遅くなりましたがUPさせていただきました。

棲 私の自由空間ブログ


撮影:松原 豊

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おかげさまで完売となりました。
ありがとうございました!

Web連載 「私のむらきお」

 「私のむらきお」 とは 「むらきお」 という言葉から思い起こす記憶の断片ををいろいろな方々に文章にしていただいたものに松原が撮影した 「村の記憶」 の写真を添えてお届けする連載ページ。文章と写真がコラボレートして様々な 「むらきお」 が生まれて欲しい、という思いからはじめています。(「むらきお」とは「村の記憶」を略した言葉です。ひらがなで書くと柔らかい感じになるので事務所で名付けました)

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